水到れば渠成る

大阪柏原市の朝は寒いくらいで、秋を実感させてくれますす。今日の患者さまは、鼻をグズグズさせてらっしゃる方も何人もいらっしゃいました。一日の気温差に、身体が順応できていないようです。こんな時はカイロプラクティックで神経のはたらきを調整して、元気に過ごせる身体作りをしましょう。

さて今日は、「ふっと心がかるくなる 禅の言葉」より、「水到れば渠成る」をご紹介させていただきます。

「水到れば渠成る」 (みずいたれば きょなる) 

歩んだあとには ひとすじの道が残る

水が流れていけばそこには自然と溝ができるという意味です。何もなかった土地も、水が流れて溝ができ、やがて大河になることもあります。

「僕の前には道はない

    僕の後ろに道は出来る」

と、始まる高村光太郎の「道程」という詩を思い浮かべる人もいるでしょう。

あなたの歩んだ後にはひとすじの道が残るのです。

「老子」にも「最上の善は水のようなもの」(上善如水)ということが説かれています。水は万物に利益をもたらしながら、けっして他と争わず、丸い器に入れば丸くなり、四角い器に入れば四角におさまる。しかも、人のいやがる低い位置に身を置く・・・というのです。

この「水到れば渠成る」という語は、すぐれた師のもとには自然と人が集まってくるという意味に用いることもあります。

急ぐことはないのです。人を傷つけることなく、方向を見失うことなく、粛々とあなたの信じる「道」を歩いて行きましょう。

去る9月30日、臨床家としての心構え、治療の基礎を教えていただいた師匠 久留島 悦子先生が亡くなりました。現役の頃、先生の下にはカイロプラクターの卵がたくさん集まり、先生から教えを請うていました。

僕は15年間のご無沙汰と、これまでの不義理を詫びに、1ヶ月前に入院先に伺いました。視力を失った師匠に僕の顔を見ていただくことは叶いませんでしたが、僕が手を握るとその手をしっかりと握りかえして、「立派になったね。ほんとに立派になった。」と、褒めていただきました。

僕自身、立派になったとは思いませんが、師匠からの言葉がただただ嬉しくて、人目もはばからず涙してしまいました。

 僕 「先生の弟子を名乗らせていただいてもよろしいでしょうか?」

師 匠「もちろんやぁ。あのときにゆるすべきやったんやぁ。」

と、こんなやりとりがありました。

訳あってこれまでは公表できませんでしたが、僕は偉大な臨床家 久留島 悦子先生の弟子であることを誇りに思っています。これまでの師匠の業績、そして歩まれた道を受け継いで、また一歩前進したいと思います。